「ありがとう」、それは利益を求めず、好意をもって相手を助けようとする親切心に返される感情が言葉で表現されたものである。
気づかい・気配り・心配り・思いやり・労り・配慮・厚意・恩情・懇切さといった、自分の何かを相手のために犠牲にしたときに、人は「ありがとう」という言葉を用いて感謝の意を示そうとする。
言葉というのは、使い方次第で相手の印象を操作することさえ可能にする。「ありがとう」はその一つであり、使い方に少しの工夫を入れるだけで、相手に届く印象を最大化できる特別な力を持った言葉であることを今回はお伝えしよう。
工夫を入れるための知識やテクニックといった類いのものは一切存在せず、今回紹介する方法は相手に恩恵を受けたという事実さえ覚えておけばそれが現実になる、極めてシンプルで誰にでもすぐにできる方法だ。
誰かにお礼を伝える機会ができたときには、すぐに実行してみてほしい。今回の記事で取り上げる事例とほぼ同じ反応か、もしくはそれに近い反応を相手はあなたに示してくれるだろう。
多くの人がやらないことをする(できる)人は印象に残りやすい
自分が知らないことを知っている人や、自分ができないことをできる人はこの世の中に山ほどいる。
お金を支払うことで人の悩みや問題を解決することを仕事にしている医者や弁護士といったその道の専門家もいれば、仲の良い友人に相談してみたら厚意でそれを解決してくれたというときもあるだろう。
そしてその問題が解決したときには、自分のために時間と労力を割いてくれた相手に「ありがとう」という言葉をもって私たちは感謝の意を伝える。
しかしながら、ほとんどの人は相手から受けたその時の恩義をその場で完結させてしまい、次にその相手と接触したときには、まるでその事実が存在しなかったかのようにその事実には触れない。
受けた恩恵に触れないのが悪いわけではなく、これが普通なので触れなくても特に問題はない。
相手も気にしないだろうし、見返りを求めずに本当に親切心でしたことなら、「ありがとう」のひと言で相手は「どういたしまして」と返してくれるだろう。
ただ、お礼を言える機会ができたときに、「ありがとう」という言葉をもって同時に自分の人柄や人格を相手の記憶に印象付けたいのであれば、人と同じことをしていてはダメだということはわかっておかなければならない。
別の記事でも何度か触れてきているが、普通を普通で片づけてしまう人は人の記憶に残らないからだ。
普通の人がやらないことや、わかってても行動に移さないことをやるから、その行動がひと際目立って相手の記憶に残りやすくなるのである。
人は時間をおいて伝えられた言動を真実と思い込む
人の周りには必ず人がいる。
大切なパートナーは一人でも、友人や知人、会社の同僚などを含めると、誰もが複数の人との関わりを持って生きている。
人当たりの良い人もいれば、悪い人もいる。優しい人もいれば、冷たい人もいるだろう。
相手にお礼を言える機会ができたときは、相手の中で自分と他人を差別化する「チャンス」と考えよう。
実際にありがちな例を挙げるので、自分に重ねてイメージしてみてほしい。
上司や先輩などの自分より目上の人や立場が上の人と食事に行き、そこでの会計を全額ご馳走になったときのケース
例えば、5人で食事に行ったとする。
普通の人は、会計が終わって店を出たタイミングで奢ってもらった事実を「ご馳走様でした」という言葉で終わらせ、それ以降はこの事実に触れることはほとんどないだろう。
あなたも、この場では周りに合わせてそれで終わらせておけばいいが、本当にこれで終わらせてしまうと他の人間と何も変わらないことになってしまう。
なので、あなただけは解散した後の家に向かう道中や、帰宅してからでもいいのでその日のうちに会計をしてくれた人に電話かLINEなどでもう一度お礼の連絡を個人的に入れておくようにする。
そして、直接顔を合わせたときに、もう一度その時のお礼を自分の言葉で伝える。
※ここまででストップ。これ以上すると諄い印象を与える。
相手の反応
※時間をおいて入れる個人的な連絡は、相手に対する感謝の気持ちとその気持ちの真実味を増幅させる。
相手の反応
相手の反応
どうやった?美味かった?!
あっ、せや!実は、もう一軒美味い店あんねん。今度そこ行ってみる?たぶん、この前より美味いと思うで!
気に入られようとしてシャレた言葉を考えたり、印象を良くしようと堅苦しい言葉を選ぼうとしたりする必要はない。
- 今日はご馳走様でした。ありがとうございました。
- ご馳走様でした。久しぶりに美味しいもの食べれて幸せでした。
このような簡単な言葉で構わない。
ここで重要なのは何を言うかではなく、このたった一つの行動を実行に移せるかどうかで相手が自分の見る目を変えるということを知っているかどうかなのである。
もし、個人的にお礼の連絡を入れた人間が5人の中であなただけだったら、会計をした人間がどう思うか、あなたが奢った側の立場で考えてみてほしい。
いくらあなたの年齢や立場が上でお金を支払うのが当然の立場であっても、人のお金で食事ができたことを当たり前のように思っているような後輩より、きっちりその姿勢を自分に示してくれる部下のほうが可愛いと思うだろう。
奢って気分悪くなるような礼儀知らずの友人より、奢って気持ちよくなれる自分の立ち位置や道理をわかっている知人とまた食事をしたいと思うはずである。
誰も連絡してこなかったけど、この子だけはちゃんとお礼の連絡してきた。
可愛いとこあるし、礼儀もわかっている。
機会ができたらまた誘ってあげよう。
自分が受けた恩義や恩恵を疎かにしない人間は、それだけで相手のほうから利益をもたらしてくれるようになる。
不良や暴走族、裏社会などに身を置いたことのある方や、またそれらの人と接点をもったことのある方ならよくわかると思うが、彼らが身を置く世界は一般社会以上に縦の関係が厳しく、礼儀や道理のわからない人間は身内であろうと制裁を受ける。
これは、そういった世界で下の者が上手く立ち回るための処世術としても使われるものであり、自分の立ち位置を踏み外すことなく、目上の人や立場が上の人間を上手に動かす立ち回り方法の一つなので覚えておくといいだろう。
何事も、事後の行動がその人を映し出す鏡になるというわけだ。
対象が増えると罪悪感が薄れる
人は恩恵を受ける対象が多くなればなる(自分以外にいればいる)ほど、相手に対して抱く罪悪感が薄れることがわかっている。
一対一で奢ってもらったときは自分だけがその対象になるが、人数が複数になると
- ご馳走になった(奢ってもらった)のは自分の他にもいる
- ご馳走になった(奢ってもらった)のは自分だけではない
という点から、相手に対する感謝の意が分散されて薄れてしまうのである。
だからこそ、対象が集団になったときは相手に対して個人的なお礼をしておくと、他者と差別化された行動によって自分の印象だけがひときわ目立って相手の中で強く印象付けられるのだ。
イギリスの心理学者である Michael Eysenck(マイケル・アイゼンク)によって提唱された「ヘドニック・トレッドミル現象」も、これに近いものがあるといえるかもしれない。
また、この心理状態に類似するケースに「いじめ」がある。
「いじめ」は、一人に対して二人以上で肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを一方的に苦しめる行為だが、一人でやっていないので、いじめの事実が発覚してその責任を担任から問われたときは、「自分がやりました」と一人でその責任を被る人間はまずいない。
5人より10人、10人より20人のほうが一人が感じる罪の意識が薄れてしまうのだ。
20人ともなれば、中には直接自分の手を汚すことのない傍観者も出てくるだろう。
本来、いじめを見て見ぬフリするのは、いじめている当事者と同等の扱いを受けるものだが、彼らの中には、自分は見ていただけでいじめていない(直接危害を加えていない)と責任を免れようとする言葉を発する者は決して少なくない。
恩義と怨恨
人をうらむ心。また、深いうらみをもった心。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉があるが、自分が受けた恩義・恩恵を済んだからといって忘れるような人間は、いずれ人から相手にされなくなる。
逆に、相手の厚意で自分が利益を得たことについては、しつこいほどいつまでも覚えているぐらいがちょうどいい。
一方で、これと真逆のことをする人や、それを他言する人が世の中にはいるのも事実だ。こういう人は、逆に相手の印象を悪くするので、心当たりがある人は改めることも考えたほうがいいかもしれない。
逆のことというのは、自分が受けた「危害」「弊害」「損害」「傷害」「傷心」を、和解した後や解決した後も根に持ち続けることである。
解決したということは、相手を許すことに同意したということ。解決したことを後からグチグチ掘り返すぐらいなら、最初から和解などしないほうがいい。
自分の意志で和解することを決め、そして実際に和解したのなら、その件については水に流すことを双方同意の元で話がまとまったということなので、後になってごちゃごちゃ口に出すべきではないし、それ以降は相手のことも悪くいうべきではない。
腹の虫が治らないからといって、裏でその事実を他言したり愚痴ったりするなど以ての外である。
自分の感情をグッと押し殺してでも、相手の立場や周囲の人、その場の空気を適切に判断できる強い人でないとなかなかできることではないが、人としての器を問われかねないので十分注意しよう。
「人を許す」という行為は、強い人間にしかできないことである。なぜなら、「人を許す」という行為は自分が受けた損害や傷心に対して、その代償を求めることなく相手を許す行為であり、心の広い余裕のある人間にしかできないことだからである。
なので、一方的に相手を許した自分をお人好しな人間と思う必要はなく、むしろ何の対価も求めずに相手の過ちを許せる自分がいるなら、それは誇りに思っていいだろう。
特に男女関係の間柄では、男性の器が女性の印象を左右する。
器の小さな男性は、落ち着いた大人の女性からは精神が未熟と判断され、相手にされない対象になりやすい。女性は、経済的・時間的・精神的に余裕のある男性を求める傾向が強いため、小さなことを根に持つ男性や、ネガティブなことに執着する男性とは無意識に距離をとろうとする。
「恩義は忘れず、怨恨は水に流す」
なかなかできることではないが、それができる一部の少数の人は多くの人から慕われる存在になるはずだ。
おわりに
今回は、「ありがとう」の使い方に一歩踏み込んだ意識をもち、それを行動に移すだけで自分だけが他者と差別化される印象を相手に印象付けられる方法を紹介した。
なんや、そんなことか。そんなもん社会人やったら当たり前のことやろ。
そう思うかもしれないが、頭でわかっていることが実際にできていることにはならない。むしろ、そういう人ほど他人の事は目につくが、自分のこととなるとまったく気づいていなかったりするものだ。
流れとしては、
最悪、STEP2は割愛しても構わないが、無いより有るほうが相手の印象が良くなることは確かだ。ただ、絶対に忘れてはならないのは、最初と最後のお礼。
この2つが有るのと無いのとでは、相手の受ける印象は大きく変わる。
最初のお礼を忘れると人の恩を何とも思っていない人間と思われ、最後のお礼を忘れると他者と差別化されることはない。
● 食事編
相手の反応
※時間をおいて入れる個人的な連絡は、相手に対する感謝の気持ちとその気持ちの真実味を増幅させる。
相手の反応
相手の反応
どうやった?美味かった?!
あっ、せや!実は、もう一軒美味い店あんねん。今度そこ行ってみる?たぶん、この前より美味いと思うで!
●相談(電話)編
「ありがとう」は、使い方次第で互いの信頼関係を深め、二人の関係がより発展するのを早めてくれる言葉である。
上手に利用できるようになると、人間関係がスムーズに発展し、世渡りが上手い人と思われるだろう。
目上の人や立場が上の人から好かれるようになり、新しい人脈が築けるきっかけにもなるので、相手にお礼を言える機会ができたときは試してみてほしい。